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昭和30年代のある家具屋 [風景画]

藤和家具店.jpg
昭和29年から10年間、私が11歳になるまで生活の場だった店舗併用住宅。
隣近所の食堂に進駐軍がジープでやって来ることがあり、町の片隅では傷痍軍人たちの物悲しい音楽が流れていた。
文久元年生まれの曾祖父が、明治に創業した家具店は太平洋戦争の空襲で焼失し、ゼロからの出発となった。学徒動員で海軍に入隊し、南洋で戦死したと思われていた父が復員した時、祖父母は長男の無事をどれほど喜んだことだろう。しかし父は祖父母の反対を押し切って関西の大学に復学し卒業後は大阪の繊維商社に就職した。母と結婚して姉と私が生まれた。朝鮮戦争が終わると不況の嵐が吹き荒れた。
父は会社が倒産したのを機に、帰郷して祖父に暖簾分けを許してもらい家具店を始めた。
生活に余裕はなく、生きていくのに皆が必死だった。高度成長時代が始まろうとした矢先、父は病気のため41歳でこの世を去った。私は小学6年生で片親となった。家業は祖父や父の弟たちが守り、何とか今に続いている。もし父が早死にしなかったら、家業はどうなっていただろう。あの頃、スタート地点はどの家具屋も差がなかったと思う。

昭和42年、北海道で似鳥昭雄氏が家具店を創業。




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ハマコウ

おはようございます。
「家」が大事にされていた時代を懐かしく思い出します。
父母は零細な農業をしていましたが、若い頃から、農業が気がかりで繁忙期には少し農業の手伝いもしました。父を亡くしてからも細々と農作業をしています。しかし、気がつけば、近隣で農作業をしているわたしと同世代の人は大変少なくなりました。時代の変化を感じています。
by ハマコウ (2021-03-28 04:26) 

yuzman1953

ハマコウさん、こんばんは。家業を引き継ぐことには自己犠牲が伴うようです。自分の子供たちには好きな道を歩ませています。
by yuzman1953 (2021-03-29 00:54) 

老年蛇銘多親父(HM-Oyaji)

yuzmanさんの絵を見させていただいて、私が生まれたから高2までを過ごした吉祥寺のことを思い出しました。

今でこそ吉祥寺というと全国的知られる繁華街となっていますが、昭和40年ごろまでは、路地裏に露店のような店(絵の雰囲気のような)並び街から15分ほど歩くと畑や雑木林が残る場所でした。

あの頃、けして豊かではなかったけど、なぜか皆、心には暖かさを感じさせる何かを持っていたように思います。

そして、3年ほど前、久々に路地裏に露店のような店の並んでいた場所を訪れてみたところ、他の場所はだいぶその風貌は変わってしまっていたものの、その一角だけ昔ながらお店が今も元気に商いを続けていたことに、大きな安堵感を覚えたものでした。


by 老年蛇銘多親父(HM-Oyaji) (2021-04-05 17:30) 

yuzman1953

老年蛇多親父さん、こんばんは。
私が幼少期をすごした絵に描いた店は、木造の三階建ての古い建物でしたが、今は炉端焼きのテナントが入っています。
外観が当時とあまりかわっていないことに、やはり安堵感を覚えます。
中がどうなっているのか気になりますが、思い出が壊れるのが怖くてできません。
by yuzman1953 (2021-04-06 01:59) 

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