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手向山公園から関門海峡を望む [風景画]

 漫画「バガボンド」は井上雄彦の緻密な絵と巧みなストーリー展開が面白く、新刊の第38巻の出版が待たれながら5年の歳月が過ぎた。独自の解釈で描かれる宮本武蔵の生涯を最後まで読みたいものだ。
 北九州市の門司と小倉の境界に手向山(たむけやま)があり、今は公園となっているが江戸時代は宮本武蔵の養子の宮本伊織の領地だった。
 宮本武蔵の死の9年後、小笠原藩の家老だった宮本伊織が領地の手向山に「新免武蔵玄信二天居士碑」を建立し、宮本家の墓地とした。碑文には武蔵の剣暦、二刀流開眼、巌流島の決闘などが記述されているらしいが、私にはちんぷん”漢文”だ。
 この公園からちょっぴり巌流島が見えるのだが、宮本伊織が見た海峡の景色はどんな感じだったのだろうと思いつつスケッチを楽しんだ。
手向山公園.jpg

手向山公園、武蔵の碑.jpg
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老年蛇銘多親父(HM-Oyaji)

この記事を読んで、この碑に込めた伊織の心境について、不思議なことに突如、脳裏におぼろげながらインスピレーションが湧き、数日間それが何であったかを整理してみたとことろ、こんな答えとなりましたのでちょっと書いてみることにいたしました。、

それは、以前何かで読んだこの小次郎との決闘の結末異聞が思いだされたことから始まったのですが、
実は、この決闘の後、小次郎はまだ息があり、それを知った武蔵の弟子たちが武蔵が去った後、小次郎を叩き殺してしまったというのです。

その真偽はともあれ、このことから武蔵は、人を傷つけることなく勝負に勝つことの奥義達成の志に目醒め、後に寸鉄帯びずに決闘に挑み、刀を持つ相手を屈服させたという境地を開拓するに至ったのではないかと思ったのです。

とすれば、養子である伊織も義父武蔵からの薫陶を受ける中で、武蔵がその奥義に達するまでの経緯を察していたはずで、その思いが、後に義父の奥義へ探究の原点となった巌流島を見下ろす山の頂に立った時胸に溢れ、義父の事績を顕彰、後世に伝えるべく、また、それと合わせ小次郎への鎮魂の意を込めて、この碑を建てさせたのではないかと感じたのです。

とまあ、こんなことですが、それが正しいかどうかは別にして、歴史の舞台の跡に立ち、そこでこんなことを思い浮かべ、その地への愛着を深めてみるのも時には面白いものだと思いました。




by 老年蛇銘多親父(HM-Oyaji) (2020-04-23 09:15) 

yuzman1953

老年蛇銘多親父さん、こんばんは。親父さんの洞察を読んで、武蔵がしたためた剣暦の中で巌流島の決闘に触れていない理由が想像できました。たいへん勉強になります。
by yuzman1953 (2020-04-24 00:32) 

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