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FXは危険? [人物画]

 私は30年以上株式をやっているが、トータルすると少し利益が出ている程度で、金利を考えると明らかに損をしている。
 社債や国債ファンドを複利で手堅く運用すればよかったと今は後悔している。
 去年就職した息子が正月に帰省したおり、ネットでFXを始めたと聞き、私が商品取引で過去に手痛い目にあったことがあるだけに心配になった。話の中で息子がユーロと円の為替投機で20万円の損失が出ているというので、「見切り千両」、「思惑が外れたときは早めに損切りしろ」とアドバイスした。
 今日、久々に息子から電話があったので、FXのその後を問うと、損切りしないままで結局儲かったとの由。30万円の元手が現在110万円になっていると得意になっていた。
 ビギナーズラックか才能か定かでないが、息子が相場に深入りしないことを親として願っている。
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2011年初投稿 [人物画]

昨年末からパソコンの調子がおかしく、電源をオンにしても起動せず、コンセントを抜いたり入れたりを繰り返して、運がよければ二、三回で、悪ければ百回くらいで、やっと起動していた。
二度と起動しないのではと不安でパソコンを数日つけっぱなしにすると、今度はオーバーヒートが心配になって終了させる━そんなことを繰り返していた。                                         1月12日に泊まりの出張から家に帰ってきてパソコンの電源を入れた。いつもの儀式を2回で起動したので、久々に良い調子だと喜んでいたら、突然モニターが真っ暗になり、それきり起動しなくなった。
 パソコンを買った店に相談すると、マザーボードの修理に4、5万円要するというので、薦められるまま新しい物に買い替えた。幸いなことに壊れたパソコンのハードディスクは無事で、大事なデータは残っており、「裸族のお立ち台IDEプラス」という接続機器を買って、新しいパソコンの外付けハードディスクとして使うことにした。
 長年、職場でも家庭でもXPを使ってきたので、W7に慣れるまで時間がかかりそうだ。
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平成22年大晦日 [人物画]

 今年もなんとか一年を終えたが、顧みるにブログの内容がかなり偏向しているようなので、来年は修正しなければと反省している。来年は明るい世の中になることを祈って…。皆様良いお年を。
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私の手痛い思い出(1987年の年賀状イラスト) [人物画]

  私は一浪の末、w大学に入り上京した。東京駅で切符を買う僅かな隙にカウンターに立てかけた傘を盗まれた。 おのぼり丸出しで、隙だらけだったのだろう。
 入学後のオリエンテーリングが箱根で開かれ、その帰りに高田馬場駅で同期と思われる学生と声を交わした。その男性は大阪出身で、関西に縁がある私は意気投合した。大学の近くの私の下宿に招待した。当時の私の下宿は一般の家の2階の和室を間借りしていた。コーヒーやお菓子を振る舞い、地方人同志の話に花が咲いた。客人の父親は警察官で、学生運動が活発な大学内では肩身が狭く、友達もできないと愚痴をこぼした。国鉄千里丘駅から自分の実家までの道順をメモ紙に書いて、大阪に来ることがあれば気軽に訪ねてくれと言った。私がトイレに行って部屋に戻ると、客人が慌てて私のライティングビューロの扉を閉めた。私は人を疑うことを知らないお人よしだった。客人が帰ってから数日たって、ライティングビューロの中の小引き出しに入れてあった、親戚からの入学祝いの図書券がそっくり無くなっていることに気づいた。その客人を大学構内で見かけることは一度もなかった。教訓、知らない人を家にいれるな。

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新興宗教ちょいかじり14(新世紀へのときめき) [人物画]

 涅槃城のドーム内を一巡すると、今度は庭園にある十二支を祀ったペット供養塔や字供養塔に案内された。   いろいろ名目をつけては信者から浄財を搾り取ろうとする意図を感じ、私の財布の紐が固くなった━賽銭は自分の干支だけにしとこう、100円硬貨一枚で十分だろ━
 再び道場に戻り、賽銭箱と対峙させられたが、100円で勘弁してもらった。
 夕方の出発時間まで自由行動となり、売店で土産を買って暇を潰していたが、人づてに信者が入れる浴場があると聞き、そちらに向かった。
 旅館にある家族風呂くらいの広さの浴室に芋を洗うように人間がひしめいていた。ゆっくり浴槽につかることは出来ないが、このツアーで初めて体を洗うことができて嬉しかった。
 午後5時25分、私たち福岡組を乗せたバスが帰路についた。車内ではお決まりとなった読経のマイクが回された。全員疲れていたようで、順番が来て起こされるまで眠りこけていた。
 福岡の教団支部に着いて起こされた時は、日付が1月4日に替わっていた。来た時と同じように北九州方面からの信者3人を私の車に同乗させて、それぞれの家の近くまで送った。━もうこの人たちとは会いたくない━
 自分の家に帰りつく頃、朝を迎えていた。
 家に入ると妻が「お帰りなさい。どうだった。」と明るい声で迎えてくれた。私はひさしぶりに家庭の朝食を味わったが、体を休める時間もなく生活リズムも出鱈目のまま、仕事始めの出勤となった。

 仏所巡りの行を遂げた熱心な信者になるはずが、私の部屋の善塔は次第に埃を被り、お経をあげようという気も私には起きなかった。
 中学教師から集会の誘いが来ても私は断り続けた。
 そして一年後の元旦に、私は教団と決別するために、一人で本山に向かった。
 一年前に見たときのように、本山は明るい顔をした信者で溢れていた。
 私は教団本部の事務所に入り、風呂敷から、善塔、お経、白装束、念珠、過去帳、ICカード等、教団に拘わるもの全てを返した。自分の家庭を以前のように戻すには、そうするしかなかった。

 私が短い間入信した宗教は、世紀末の不安を煽り、来たるべく善の世界に生きる方法を説いたが、実際のところ、宗教にすがるしか幸せになる方法はないように信者を洗脳することによって、ビジネスとして成り立っているようだ。
 翌年、西暦2000年は心配するようなことは何事も起きなかった。
 そしてさらに一年が過ぎた。
 2001年を家族全員揃って、元気に楽しく迎えることが出来て、私はとても幸せだった。
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新興宗教ちょいかじり12(無垢の心) [人物画]

 信者たちは奇跡が起きるのを期待して、多宝仏塔のまわりでひたすら念じた。空気は澄み、満天の星が輝いていた。仏塔の四隅に置かれたサーチライトが、宇宙に向けて光の道を拓いていた。
 みんな空を仰ぎ、読経を続けた。しかし喉は嗄れ、体は凍えるばかりだった。生理的な要求で休憩所に向かうと、初対面の信者同士で声を掛け合った。
 「何か起こりました?」「今のところ何も…。」「今日は雲がないから難しいようですね。」
 休憩所の壁に、仏界からの証しとされる写真が貼ってあった。
 一枚は遠くに見える雲のかたちが、横たわったお釈迦様の姿を表しているというものだった。私は有難味を感じなかったが熱心な信者には御神体に見えるのだろう。
 多宝仏塔の夜景のシルエットがお釈迦様が座禅を組んでいるように見えるという写真は、そのように見えるよう窓などを作っただけで、何ら神秘性は感じなかった。 
 日付は1月3日になった。多宝仏塔から次第に人が減っていった。若い信者の少人数のグループが数組残るだけになった。北九州から一緒に来たグループの中では、私と若い男性の二人しか残っていなかった。
 その男性もそろそろ痺れをきらしたようで、「地平線に見える雲が涅槃像に見えなくはない。」と言い出した。
 上を向いて歩きながら喋っていると、うっかりサーチライトに私の足がひっかかり、光を跨いでしまった。
 その瞬間、「おおー。」と一部で感嘆のどよめきが湧いた。私は少し責任を感じたが、それだけ信者が盲目になっていることがわかった。寝る時間がなくなるので、私は宿泊所に戻ることにした。
 疑う者には、仏は何も示されないということを納得した。
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名古屋との絆 [人物画]

 長野の大学を卒業した長男は、福岡には戻らずに東京で就職した。2年間、横浜から六本木に通勤する生活を送ったあと、名古屋に転勤となった。そこで運命の女性に出会い、結ばれた。嫁のご両親とも名古屋生まれの名古屋育ちで、当家にとって初めて名古屋に親戚ができた。
 熊本の大学院を中退した娘は、未曾有の大不況の中、就活に苦戦していた。昨年の春、やっと東京の準大手の学習塾の講師に採用された。赴任先は名古屋となった。
 昨年、長男のところに私の初孫となる男の子が生まれ、名古屋との絆が益々強くなっていくのを感じる。
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初詣のイメージ画 [人物画]

 初詣は、家族揃って和布刈(めかり)神社で祈願をして、新しい破魔矢を求め、おみくじを引くのが我が家の恒例行事となっている。子供たち三人が遠くの大学に進学してから、家族全員が揃う機会は正月だけになった。
 昨年は結婚した長男が嫁を連れて帰省したので、定員オーバーとなった私はアフリカツインで車のあとを付いて走った。
 今年は、社会人1年生の長女が仕事の都合で帰省できなかったのだが、長男夫婦に初孫が加わったので、賑やかな初詣になった。長女が揃っていたら写真館で記念撮影をするつもりだったが叶わなかった。
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ヤードバーズ出身三大ギタリストⅢ [人物画]

 私が高2の時、レッド・ツェッペリンが日本に来た。同級生が彼らの広島公演を見てきた話にも興味がなかった。
 浪人中、ギターを教えてくれた友人の家で、「胸いっぱいの愛を」のレコードを初めて聴いた。ハードロックの真髄に触れたようで感動した。大学2年の時、クラスとして何かしら学園祭に参加しようと有志でロックバンドを組んだ。
 私たちのバンドのメンバーが暮らすアパートにG院大の先輩がいて、レッド・ツェッペリンのコーピーバンドを作っていた。そのバンドの前座として、T女子体育大、G院女子短、G院大の学園祭で演奏することになった。結成間もない私たちには本番のW祭までの絶好の練習機会となった。
 先輩たちの演奏はセミプロ級で、音響機器や運搬用のボンゴまで本格的なものを自前で揃えていた。
 私たちの拙い演奏は、先輩バンドを大いに引き立てた。
 G院女子短大は野外コンサートで、陽が落ちてから始まった。私たちの3曲のステージが軽く終わると、先輩たちのバンドの登場で会場が盛り上がった。「移民の歌」「胸いっぱいの愛を」…。大音量がグランドに響き渡った。「幻惑されて」が始まりコンサートが最高潮に達したと思った時、学園祭の実行委員がコンサートを中止させた。
 付近の町内会長たちが、騒音の苦情で学校に押しかけていたのだ。実行委員の女の子は泣いていた。
 先輩バンドのホームグラウンド、G院大のコンサート会場はピラミッド校舎で、騒音の問題はなかった。
 前回のように私たちが先にステージに上がり「キャロル」「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」を演奏した。途中、観客席から一人の女性が立ち上がり「あんたら、それでも音楽のつもり?」と野次り始めた。
 私たちは少しも怯まず、ボーカルが「帰れブス!」と一括して、最後の曲「ゲット・バック」を演奏しはじめた。曲が終わりに近づいた頃、先ほどの女性が学ランを着た見るからに右翼っぽい男たちを引き連れて戻ってきた。
 男たちの目的はコンサートを潰すことで、機器を壊そうとステージに上がって来た。出番を待っていた先輩たちもステージに上がり、大流血コンサートとなった。当然コンサートは中止となった。
 このあと、先輩バンドは分裂してしまい、私たちは少し責任を感じた。
 青春の思い出が詰まったレッド・ツェッペリンは、私が一番好きなバンドだ。
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ヤードバーズ出身三大ギタリストⅡ [人物画]

 大学生になり、ロックの世界が広がった。ピンクフロイド、ブラックサバス、ユーライアヒープ、サンタナ、ディープパープル、オールマンブラザーズ、ドゥービーブラザーズ、ジミーヘンドリックス、ローリングストーンズ、ジャニスジョップリン、…好きなレコードやテープが増えていった。4年間東京で暮らしたが、あまり生活に余裕がなく、ライブコンサートへはめったに行けなかった。それでも大枚をはたいて日本武道館コンサートに二回行ったことがあった。ひとつはテンイアーズアフターで内容は全く記憶に残っていないが、もうひとつのベック・ボガード&アピスのライブは今だによく憶えている。
 スティービー・ワンダーのスーパースティションが世界的にヒットした頃で、それをアレンジしたベックのギターに魅かれ、何としても見たかった。しかし来日した時、ベックは下痢をして体調が悪く、ギターも少し元気がなかった。ベースのティム・ボガードやドラムのカーマイン・アピスの動きのある演奏がベックの不調をカバーしていた。
 そういうわけで私のベックに対する印象は、ヤードバーズのリードギタリストとしては、エリック・クラプトンとジミー・ペイジのような大きな成功もなく、テクニック的にも3人の中では3番目かなくらいに思っていた。
 その後、クラプトンは弾き語りが主となり、ペイジは過去の栄光の人となったが、ベックはインスツルメントで進化をし続け、ギターテクニックで彼に並ぶ者はいなくなった。人気に溺れることなく道を究め続けるベックが好きだ。
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